13年と4ヶ月前から、私は人生最大級の修行期間中である。
諸先輩方は、「いつかは楽になるから」といった。
かと思えば、「今が一番かわいいんだから」というセリフは、もう何度もいわれた。その間、「そんな失礼なことを言うんじゃない!これからもずっとかわいい!」と、心で密かに反論もした。
あの時反抗心を抱いた私へ告げよう、確かに「”今”が一番かわいかったのかもしれない」。
悔しくも13年を超えた時を経て、口惜しくもそう認めざるを得ない時は、何度もあるのが今の私にとっての、育児の日常。
結婚生活を迎えるにあたっての身支度をしていたときに、「もう2度と手に入れることはできないんです、本当は売りたくないくらい」と、半泣き状態で本音を素直に表現してくれた家具屋で買った北欧ヴィンテージソファはボロボロに壊された。塾貸与のタブレットはありえない理由で2回も画面を割られ(修理費用2万2千円×2回)た。家中のあちこちの壁紙は無残にも剥がされた(修繕不可能)。2段ベッドにはコンパスで描いた無数の円が(なぜ・・・)。塾前に小腹(てか、大腹)を満たすための軽食にチャーハンを作ったら「げげっ」と嫌な顔をされた。キレイに畳んだ洗濯物は畳んだ先からぐちゃぐちゃにされる。公文の宿題は未着手のまま捨てられる(母の勘が良すぎて即バレる)。「3色ボールペンがなくなったから」と新調してきたら3本連続で壊された。学校の視力検査で引っ掛かり2駅隣の眼科へ再検査に行きわざわざ医師の結果をもらってきたのに2ヶ月以上も検診表を担任へ提出しない。「一度も持って帰ってきてないはずの国語の教科書が学校にないんだけど」(え、じゃあこの1年近くどうやって国語の勉強してきたの?汗←今朝ここ)。
そう、育児って本当に理不尽極まりないことの連続。
どれだけ、無条件の愛や、奉仕の気持ちや態度を試されるんだろう、何の罪滅ぼしかよと時に発狂しそうになるくらい、他者との人間関係では起こり得ない、理不尽なことばかり。
でも、3人の子どもたちが巻き散らかす「理不尽なことがら」を通して、私と言う人間単体で経験できることが、軽く4倍の経験値となって、凄まじい熱量で増えていく。毎日ヘトヘトではあるが。
机上の空論者だった14年前の私
物心ついた頃から、机上の空論は嫌いである。
何事も経験こそ財産だなぁと、人生半ばに差し掛かる年頃を迎えてしみじみと思う。
かつて私は意気揚々と「理想のお母さん」像を抱えていた。
怒らない、優しい、いつも子どものすることを暖かく見守る・・・・・などなどなどなどなど「理想のお母さん」像は、母親歴1年も立たずして、さっさと崩れ去ってしまった。
自分が身をもって体験したからこそ、生きた言葉で語ることができる。
あーでもないこうでもないと、外野でもの言うだけなら誰でもできる。当事者にしかわからないことがあり、当事者にしか伝えられないことがある。だから、外野にはあーでもないこーでもないと、説教なんてされなくないし、過去の自分のあり方に懺悔の念もある。
13年と4ヶ月前の私よ、理想のお母さん像なんて掲げなくてよかったんだよ。
そしてその後の私よ、この不条理極まりない家庭生活の中で、理想と現実のギャップに悩み苦しむ必要なんてなくて、今あるがままの自分を認めることができれば十分、ということに気づけば良いのだよ。
古くは、「寝ない赤ちゃんを夜通し寝かせる方法」に始まり、幼児教育や、片付けのハウツー本といった、数多のハウツー本やメソッドが世の中にはある。そういったものに助けを求めて取り入れた時もあったけれど、どうにもうまくいかないのだ。
「それ、あなたの子はできても、うちの子にはできない」連戦連敗だった。誰かがやったやり方で全員がうまく行くなら、もはや新しいハウツー本は存在しないだろう。人には向き・不向きがあるのだし、それこそが多様性というものだ。
私は何者にもでもないし、子育てに「成功」しているとも思えない。
次々壊されていく家の大切なものたちや、理不尽な子どもたちの姿に時に嘆きと怒りを覚えつつも、今日も掃除機をかけ大量の洗濯を干し、土鍋で炊いたあたたかいご飯を食べさせ、心静かに毎日を生きることに努めよう。時に一喜一憂しながらも、目の前に与えられたことに精一杯尽くすこと。それが今の私にとっての答えだと思うから。
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