会社員を辞めて6年目。
紆余曲折色々なことがあったけれど、この春働き方を抜本的に変えることにした。
この春から長女は中学校へ入学、長男は小5へ進級、そして末っ子は6年通った保育園を卒園し、小学校へ入学。11年に渡った保育園送迎がやっと終わったのだ。
我が家の住む自治体では、「放課後クラブ」といって小学校入学後も原則小3まで、両保護者が就労の場合は手続きをすれば全児童が、学校施設内にある公設民営の学童を利用することができる。なので、学校のない日(長期休業等)でも預かり先があるにはあるものの、家庭で昼食(お弁当)を用意して持参させることが必要。
そこでふと、私は今更ながら考え直したのだ。
長女長男から経験して「小学生の母」7年目の私。
これまでは、ルーティンを崩すまいと、早起きしてお弁当つめて、夕方にお迎えに行ってと。一生懸命やってきたけれど、歳をとったのかなんなのか、どうにも小学生になる末っ子に早起きしてお弁当を作って、わざわざ学童へ預けるイメージが湧かない。頑張る気力も起こらない。
「いや待てよ、6年前は、なかなか寝ないからと急かして叱って早寝させて、朝叩き起こして、決まった山手線に心臓ドキドキさせながら飛び乗って。会社に着いた頃には「もう1日分やり切った」くらいに疲れ果てながら頑張ってたのに、なぜ今はそれができない?」と。
ふと、7年前末っ子の妊娠中にお世話になった整体師さんに毎回言われていたセリフを思い出す。
「○○さんは頑張り過ぎです。もっとゆっくり、肩の力抜いて、頑張るのをやめてください。」
そのとき私は、
「いえ、全然頑張ってなんかないんです。
会社も時短だし、全然成果も出せていないし、もっともっと頑張らなきゃならないんです。」
彼に何度「頑張りすぎ」と言われようが、毎回頑なに否定していた。
どこで誰に「頑張りすぎ」と言われようが、
自分が頑張っていることを認めようとしなかった。
だって全然足りていないと思っていたし、社会から見るところの評価は全然優秀なものではなかった。
更には、社会から子育てをハンデと見做され、子どもを理由に「できない自分」になんて、絶対になりたくなかった。
そう、振り返ると、気づいた時には、競争原理に基づく社会で、生き急いで生き急いで、誰よりも前へ前へと急いで生きてきた。
ずっと、終わりの見えないゴールを追い求めてきた。
私は必要以上に頑張っていたんだ。
もう、生き急ぐのは終わりにしよう。
そもそもの話が、子どもが休みたいときは母親も、いや、せめて私は休みたい。
だったら子どものライフサイクルに合わせて生きたらいいじゃないと。
ここに至るまでに6年以上もかかってしまったけれど、この思いに至れてよかったと思う。
だから私はこの春から、働き方、働く意味、働く内容、働く目的、全てを根本から見直し改革をしていく。
最近の平日のサイクルはこんな感じだ。
これに明日は、長男が遠足だからお弁当を1食分追加で用意することになる。
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5:30 起床
窓開け、空気の入れ替え
歯磨き、シャワー浴びて着替え
5:55 長女を起こす(めざまし時計では起きない女、NHK基礎英語に合わせて起こす)
炊飯~お弁当づくり×2食分、水筒用意(前日の夕飯の食器を片付けながら)
朝ごはん支度(子ども用)
(合間にパラダイス酵母とコーヒーを1杯ずつ飲む)
7:00 長男次男を起こす
7:15 長女出発見送り
洗濯機を回す
連絡帳等用意(感染症対策で検温とマスクを用意というアドオン仕事が増えた!)
8:05 長男次男見送りがてら近所の公園へ朝散歩
9:10 洗濯を畳む、干す、掃除機をかける、プランターの水やり(BGMは恩師のradio sufi)
瞑想する
5分間読書
9:30~ 仕事開始
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この仕事の終了時刻を、これからは子どもたちと私自身が心地よくいられるように、
コンディションをいつもよくしていられるよう、無理せず早めに切り上げる。
最近確信したのが、時間の感覚は個々人によって差があるもので、伸び縮みし、時には止まるものなのだと。
実際のところ、先週4月6日火曜日が長女と次男の入学式バッティングで、空前の書類対応(通学路や家族構成の記入、学習に使うアプリや学校連絡網の登録等)で非常に過密な時間を過ごしていて、たったの1週間が1ヶ月以上に感じられるのだ。
働かなくても不労収入で生きている人もいる。
時給が1,000円の人がいれば100万円の人もいる。
それを決めるのは他者ではなく、自分自身だ。自分の価値は、自分で決めるもの。
2021年からの新しい私の生活サイクルは、社会や枠組みに合わせるのではなく、私が決めていこう。いつでも心が穏やかで綺麗な状態でいられるように。
今後の仕事の方向性については、逡巡した2020年を経て、ようやく定まってきたので、次回の記事にてご紹介させていただこうと思う。
3匹の子どもたちはいつも私が幼い時に置き去りにしてきたことを思い出させてくれる。
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